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できればあの時の味を確かめたい [いろんな思い出]

おはようございます、gonanaです。
今日は珍しく朝に更新してみました。といっても、特にこれといった理由はないですけど(笑)

本日のお題:もう一度食べたい、給食メニューは?

今日も、別のブログサービスで以前やっていた私のブログの中の、提示されたお題に答える形式の記事の過去ログから拾ってきたお題に再び答えるスタイルでいきます。
当時も今も、こうした食べ物系のお題の場合、私の答えは大抵「何でも」とか「ほぼ全部」になってしまいます。
それは給食だって同じで、もう一度食べたい給食メニューは何?と聞かれても「ほぼ全部」と答えるしかありません(笑)
カレーにソフトめんに焼きそばに冷凍ミカン、日によってマーガリンやチョコクリーム、ジャムなどいろいろなものをつけて食べる食パンや、小さく切ったチーズやレーズンがちりばめられたコッペパンなど、今すぐにでもタイムマシンに乗って食べに行きたいくらいのメニューがたくさんあります。
その中で強いて一つだけ挙げるなら、確か小学2年生の時に一度だけ出た鯨のフライですかね。
あの頃は、まさか鯨を食べるということ自体が貴重な経験になるとは思わず、ただ「へぇ~、珍しいね」程度の感想しかなく、鶏・豚・牛の肉と比べてどんな味だったか、全くといってよいほど印象に残っていません。
もし今、あの時と同じ鯨のフライを食べるチャンスがあるなら、今度こそしっかり味を噛み締めてみたいですね。

私にとって、給食の時間は一日の学校生活の中でも最大のお楽しみでした。
私が小中学生だった1970年代後半~1980年代前半は、今ほどいろいろな工夫やこだわりが際立つような内容ではなかったと思いますが、それでもやはり毎日給食の時間が待ち遠しくてたまらなかったのを思い出します。
今も時々「昔懐かしの給食が食べられる店」といった店をテレビ等で紹介しているのを見るたびに行ってみたくてたまらないんですけど、まだ実現できてません・・・

そんな私にとって、最近新聞等で取り上げられている、行き過ぎた「完食」指導や、15分や20分といった短時間で給食を食べなければならないなどといった問題は大いに気になるところです。
確かに私たちの頃も、「給食はなるべく残さず食べましょう」などと先生や給食委員が呼びかけていましたし、友達とのおしゃべりに夢中で給食を食べ進んでいない子が先生に注意されたりはしていましたが、苦手なメニューを無理やり食べ(飲み)させられたり、給食時間中も時間に追われて食べなければならないといった経験は、少なくとも私のいたクラスではありませんでした。
最近の子供たちは、あまりにも大人の勝手な都合や思惑、思い込みや旧態依然とした意識などに振り回されすぎではないかという気がします。
給食はやはりどんな時代も楽しい時間でなければならないと思いますし、そのためにも学校をめぐる様々な大改革が必要な時期に来ているのではないかと思います。
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気づけば長いつきあいに [その他鉄道ネタいろいろ]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:何線使ってる?

私にとって一番馴染みのある路線といえば西武線。
自宅の最寄駅は西武新宿線の某駅で、新宿線も某駅も、幼稚園年長の時に今住んでいる所に引っ越してきて以来もうかれこれ40年以上利用していることになります。
さらに、それ以前に2~3年ほど池袋線沿線の東京都清瀬市に住んでいたので、西武線との縁はもう45年近くになるわけです。

私が沿線に住み始めた頃の西武線といえば、池袋線にも新宿線にもまだまだ451系・501系・701系非冷房車などの赤とベージュ塗装の「赤電」が多く、黄色塗装の101系や昭和52年に登場した新宿線向けの新車2000系(初期車)がやたら新鮮に映ったものです。
特急「レッドアロー」は初代特急車5000系の時代で、日中の列車ではワゴンによる車内販売もあるなど、現在の10000系や001系とはまた違った「特別」感のある特急列車というイメージでした。
さらに、当時の西武鉄道には貨物列車も健在で、E851形電機が牽引するセメント貨車の姿も日常的に見ることができました。所沢駅構内の池袋寄りには機関区(所沢車両管理所)もあり、E851形や輸入旧型電機の姿をいつも電車の窓から眺めることができました。
また新宿線沿線に引っ越した当時は確か入間川(現:狭山市)駅―本川越駅間は単線だったり、自宅最寄りの某駅などでは駅構内の移動に構内踏切が使われていたりと、今から思うと懐かしい風景も残っていました。

あれから40年、あの頃活躍していた車両で今も西武で活躍を続けているのは2000系初期者の一部くらいになり、特急車も3代目の001系が登場、貨物列車の姿も消えるなど、西武線にも時代の流れは例外なくやってきています。
一方、池袋線では40年前はまだ計画段階でしかなかった営団地下鉄改め東京メトロの有楽町線への相互直通運転と練馬ー石神井公園間の複々線化が実現し、同じ東京メトロの副都心線との直通も実現するなど、40年前は想像もつかなかった変化も多くあります。何よりも、西武の車両が東急東横線を走ったり、逆に東急の車両が飯能駅まで日常的にやってくるようになるなど、40年前にはおそらく妄想としてすら考えられなかった状況もあり、長年の西武戦ユーザーとしては隔世の感があります。

今のところ私には引っ越しなどの予定もないので、西武線との付き合いはまだまだ続きそうです。

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OTON GLASS [視覚障碍者としてのあれこれ]

こんばんは、gonanaです。
私のような視覚障害者にとって、紙に印刷された文字や看板の文字などのような文字による情報や、物の色や形などの、視覚による情報を得ることは、人それぞれ程度の差はあるもののやはりかなりの困難を伴います。
しかし、近年のIT技術の急速な発展が、その困難さをかなり改善しつつあります。
例えば、視覚障害者である私がパソコンやスマートフォンなどを操作する際に画面に表示された文字を読み上げるために使用するスクリーンリーダーもその一つですし、紙に印刷された(書かれた)文字情報をイメージスキャナやデジタルカメラによって読みとり、コンピュータが利用できるデジタルの文字コードに変換するOCR(Optical Character Recognition/Reader:光学的文字認識)という技術を用いて文字データをスクリーンリーダーを組み込んだパソコンなどでの読み上げが可能なWordファイルやテキストファイルなどの形式にしたり、印刷物などをスマートフォンのカメラで撮影し、その場で認識して読み上げるOCRアプリなどがそれです。
そして、今回ご紹介する「OTON GLASS」(オトングラス)も、そうした文字による情報を得ることに困難さを感じている人々にとって心強い味方になりそうな技術です。

「OTON GLASS」は、上にも書いたとおり文字を読むことに困難さを感じている人々のために開発されたいわゆる「スマートグラス」です。
詳細は下記のリンクをご覧ください。
https://otonglass.jp/products/
この「OTON GLASS」、もともとは視覚障害者のためというよりは、脳梗塞の後遺症などにより、脳の言語を司る部分(言語野=げんごや)に障害が残り文字を読む能力を失ったり低下する「失読症」の患者さんを想定して開発されたものだそうです。ちなみに「OTON GLASS」という商品名の由来も、失読症を抱えている父親を救いたいという開発者の思いが込められているそうです。
しかし、カメラでとらえた文字情報の画像を音声として読み上げてくれるというのは、視覚障害者にとっても非常にありがたい技術で、私はその存在を知って以来大きな関心を持ち、一度体験してみたいと思っていました。
そんな中、昨年夏、私の所属する視覚障害者団体の月例会に先立ってこの「OTON GLASS」などの視覚障害者向けの支援機器の体験会が開かれることを知り、参加しました。
会場には「OTON GLASS」の開発を担当している技術者の方もいらっしゃっており、まずは簡単に説明を受けた後、早速体験に映りました。
「OTON GLASS」の本体はメガネ型をしており、メガネでいえばレンズに当たる部分は何もない素通しになっています。この本体を普通のメガネをかける時のように顔に装着したとき、眉間の位置に対象物を撮影するカメラ、左耳の近くには2つの押しボタンのある操作部分が付いています。そこから伸びたコードが「OTON GLASS」の機能を司るコンピュータと電源バッテリーを納めた機器箱につながっています。
本体を手に取ってみると、メガネ部分は案外軽く、ごつごつして重いという印象はなく、装着してもあまり違和感を感じません。
体験では、A4サイズの紙に印刷された書類や、食品のパッケージの文字、郵便物の宛名の文字など、いろいろな文字の読み上げを聴くことができました。
読みたい文字の書かれた紙などを目の前に持ち、本体の操作部分にある2つのボタンのうち1つを押すと、対象物を本体のカメラで撮影して文字情報を読み上げます。読み上げを聞いてみると非常に自然で滑らかで驚きました。また、かなり悪筆だったり崩した文字でなければ、手書きの文字もかなりの精度で正しく読み上げてくれるようです。
また、操作部分のもう一つのボタンを押すことで、日本語で書かれた文字情報を英訳(逆も可能)することもできます。
ただ体験会の際に開発者の方から伺った話では、「OTON GLASS」もまだまだ開発途上のシステムゆえ、解決すべき課題もいろいろあるそうです。例えば、新聞や雑誌などのように「段組み」がされていたり写真や図版などが含まれるレイアウトの文書を正確に読み上げるにはまだ難があるそうですし、テレビのテロップなどのように動きのある文字情報の読み取りにも課題が残っているようです。
また「OTON GLASS」を使うにはインターネットに接続していることが前提なので、携帯型のWi-Fiルータなどネットに接続できる環境を別に整える必要があることなど、外出先で使用したいときの使いやすさについても改良の余地がありそうです。
しかし、そうした課題はまだまだあるとはいえ、体験会のわずか15~20分ほどの限られた時間の中でも「OTON GLASS」の便利さは十分に感じることができましたし、これがあれば文字を読むことに困難さを抱えている人々にとって生活や仕事、趣味などいろいろな場面で「できること」が増えていくきっかけになるのではないかと感じました。
この時の体験を通して私は「OTON GLASS」に対する関心がさらに高まり、正直なところ一日も早く手にしたくなりました。現状では価格も30~40万円ほどと、気軽に購入できる金額とは言い難い「OTON GLASS」ですが、今後様々なバージョンアップを経た量産品が広く流通するようになり、障害者の日常生活用具として少額の負担で購入できる自治体が増えるなどすれば、多くの人々に恩恵をもたらす可能性を十分持つ商品だと思いますし、私もそのような日が早くやってくることを願っています。
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思い出の先輩 [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:久々に会いたい人いる?

昨日の記事で、私が大学時代から約20年、千葉市のおもちゃ図書館でボランティアをしていたことを書きました。
ボランティアとしておもちゃ図書館の活動に参加するなかで、利用してくれる子供達やその保護者の方々、同じボランティアとして一緒に活動させていただいた方々など、いろいろな人との出会いがありましたが、私の中で今も特に思い出に残っているのが、ボランティア仲間で同じ大学の2年先輩の学生だったO先輩です。
お題の「久しぶりに会いたい人」の一人が、そのO先輩です。
O先輩は、私が大学時代に所属していたおもちゃ図書館のボランティア活動を行うサークルのメンバーではありませんでしたが、個人でボランティアとしておもちゃ図書館に登録して活動していました。
私が大学に入りおもちゃ図書館のボランティアを始めてしばらく経った頃から、O先輩は私に親しく声をかけてくれるようになりました。利用する子供の障害や性格に合わせて、どのようにコミュニケーションをとったらよいかなど、いろいろアドバイスをしてくださったのですが、それは決して「上から目線」ではなく、あくまでも同じボランティア仲間としてという感じの親しみやすいものでした。
ボランティアの時以外でもO先輩はなぜか私をかなり気に入ってくれていたようで、先輩が卒業するまでの3年間、非常に仲良くさせていただきました。
先輩は関西(姫路)出身ということもあってか話していてもとても楽しく、いろいろ勉強になることも教えてもらいました。
毎週土曜日午後のおもちゃ図書館での活動が終わった後、おもちゃ図書館の開かれる千葉市療育センターの最寄り駅のJR京葉線稲毛海岸駅近くにあったモスバーガーに一緒に立ち寄り、ボランティアに関することからお互いの悩みの相談まで、あれやこれやと語り合ったのも今や懐かしい思い出です。
その際、O先輩は毎回私の注文した分もまとめて支払いをしてくださいました。私が自分の分は支払うと何度も伝えてもそのたびに「俺はすぐ近くに住んでいるからいくら遅くなっても関係ないけど、○○君(私のこと)は遠くから来ているのに早く帰りたいところをこうして付き合ってもらったんだから。今後○○君に後輩ができた時にこんな感じで後輩に接してもらえれば俺はそれで十分だ」と言ってくださいました。
とにかくO先輩が私に、先輩というより対等な仲間として接してくださったことは、今でもよい思い出になっています。
O先輩は私より2学年先輩でしたが、4年生での卒業の単位を満たしていたにもかかわらず、あえてもう1年留年して大学にとどまったため、私とは3年間にわたって一緒にボランティアとして活動することができました。
そして先輩は大学卒業後地元の関西に帰り、社会福祉関連の仕事に就いたそうです。その後数年は年賀状のやり取りをしていましたが、いつしかどちらからともなく音信不通になってしまい、今の消息は分かりません。
今でも折に触れて先輩の温かみのある関西辨を思い出すと、久々にいろいろ語りあいたい気分になります。いつの日か、どこかで久しぶりに積もる話を肴に一杯飲みたいものですね・・・って、そういえばあの頃、先輩と飲んだこと、なかったような(笑)
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おもちゃ図書館 [ノンジャンル]

こんばんは、gonanaです。
私は大学時代から約20年にわたって、千葉市で活動しているおもちゃ図書館「千葉市トイライブラリー」にボランティアとして参加していました。
「おもちゃ図書館」とは、子供が親や他の子供、ボランティアとたくさんのおもちゃの中から好きなおもちゃを自由に選んで遊ぶことができる活動です。おもちゃはおもちゃ図書館の開館時間中にその場で遊ぶだけでなく、図書館の本のように決められた機関の中で自宅に借りて帰る事ができるのも特徴です。日本では1980年代前半に誕生し、現在では全国各地に開設されています
おもちゃ図書館がスタートした当時は、主に障害のある子供とそのきょうだいのための活動という位置づけのところが多かったようですが、現在は障害のある子もない子も共に遊び交流することで育ち合う場となっています。
私がこの「おもちゃ図書館」を知ったのは、大学に入学してすぐのサークル選びの時でした。私の入学した大学は当時社会福祉学部のみがあり、サークル活動の中にも高齢者施設や障害者施設等でのボランティア活動を行うサークルがいくつもありました。その中で「おもちゃ図書館」という聞き慣れない場所でのボランティアに特化したサークルというのに興味を持ち、見学を兼ねてボランティアを初体験しました。
「千葉市トイライブラリー」は、市内にある障害者がスポーツやサークル活動などを行う施設内の一室で、平日は障害のある子供の療育に使われている部屋を会場にしていました。毎週土曜日の午後に開催されているので、子供もその親も参加しやすく、ボランティアも主婦の方から私達のような大学生や高校生、専門学校生まで、いろいろな人が子供たちの遊び相手になっていました。
おもちゃ図書館では、子供たちはおもちゃ図書館の活動を支援してくださる個人や団体が寄贈してくださるなどして集められた、たくさんのおもちゃやぬいぐるみなどで遊ぶだけでなく、会場となっている療育室の中にある遊具やボールなどでも遊びます。また、時折人形劇や読み聞かせなどのサークルの方々がおもちゃ図書館の時間に公演をしてくださることもありました。
さらに、時にはいつもの会場を飛び出して子供たちとその保護者の方、ボランティアみんなで貸切バスで千葉市動物公園や市原市にある千葉こどもの国などへ出かける機会もあり、群馬県にキャンプに1泊で出かけたこともあります。また、千葉県内の他のおもちゃ図書館とともに千葉県主催のイベントで出張おもちゃ図書館を開設したこともあります。
私の所属していたボランティアサークルでも、毎年の学園祭の時にはトイライブラリーのおもちゃをいくつか借りてきて出張おもちゃ図書館を開くのが恒例になっていました。
私たちボランティアは、そうした活動の中で子供たちの遊び相手になるのはもちろんのこと、開催前後の準備や片付け、おもちゃの消毒や簡単なメンテナンスなどの裏方作業もしていました。また、障害の影響で多動傾向のある子供が施設の外に飛び出したり危険な場所へ行ったりするのを止めたりするなど、子供たちの安全確保も仕事の一つです。
おもちゃ図書館のボランティアは、子供たちと追いかけっこをしたり一緒に遊具で遊んだり、時には多動傾向のためあらぬ方向へ走り回る子を道路などへ飛び出さないように追いかけたりと、想像以上に動き回る場面も多く、毎回の活動が終わるとへとへとになるときもあります。
それでも、楽しそうにおもちゃで遊ぶ子供たちの姿に接するたび、こちらも日常のあれこれを一時忘れて楽しい時間を過ごすことができました。そのような楽しさもあり、初めは体験だけのつもりだったのが、大学を卒業した後も長くボランティアを続けることになりました。社会人になってからも、ほぼ毎週のようにこのボランティアのために千葉へ出かけるのが楽しみの一つにもなっていました。
今でもこうしたボランティアが近くであれば、何らかの形で関わりたい気持ちは変わらずあります。視覚障碍者となった今では、かつてできていた事でも困難になってしまったものはあるかと思いますが、そんな私にも何かできることがあるのではないかという思いがあります。いつかそんな機会があればと思っています。
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あれこれ妄想するだけで・・・ [ノンジャンル]

こんばんは、gonanaです。
本日は2回目のお題投稿です。

お題:歴史上の人物がツイッターやってたとしたら、誰をフォローしたい?

特に誰という人かが絞りきれないほど、いろいろな人のアカウントを見てみたい気がしますが、やっぱり戦国武将や幕末・明治維新期の志士たちのアカウントはぜひともフォローしたいです。
日本の歴史の中でも時代がダイナミックに動いた時代の空気をリアルに感じられるという点では、かなり魅力的ですし、これまで知らなかった歴史の裏側がのぞけるかもしれません。
個人的には、戦国時代なら信長・秀吉・家康、幕末・維新期なら西郷隆盛・坂本龍馬あたりがやっていたら面白そうな気がします。
それぞれがツイッターというメディアをどう活用するかという点からも、いろいろな人物像が見えてきて楽しそうです。
また、もし時空を超えてそれぞれの人物が現代でもツイッターをやっていたとしたら、今の世の中に対してどういった考えを持っているのかも見てみたいところです。一番興味があるのは、織田信長が首相時代の小泉純一郎氏やアメリカのトランプ大統領の政治に対してどんな意見を持っているかです。まあ、今だったら信長公のツイッターは結構な頻度で炎上していたかもしれませんが(笑)
あと、旅好きとしては松尾芭蕉の旅の空での投稿(というか投句?)は読んでみたいですね。

ここからは世間一般でいうところの「歴史上の人物」とはちょっとズレますが、鉄道好きとしてぜひフォローしたい人を数人挙げてみたいと思います。
まずは「時刻表2万キロ」や「最長片道切符の旅」など鉄道の旅を中心にした著作の多い紀行作家宮脇俊三氏。
日本国内はもちろん海外の鉄道にもいろいろ乗っておられた氏の旅の空からのリアルタイムのツイートも楽しそうだし、氏が某大手出版社の編集者になる前の少年・青年期からツイッターをやっていたとすればその時代の鉄道や社会の状況がリアルに伝わってきそうでその点でも興味がかなりあります。
続いては「阿房列車」シリーズなどで知られる作家の内田百閒(うちだひゃっけん)氏。
氏は相当な鉄道ファンだったそうで、私が過去に読んだ「第一阿房列車」「第二阿房列車」も昭和20年代後半ごろの鉄道の状況がよく伝わってきて興味深いものがあります。そのような氏ならば作家としてだけでなく「鉄」目線のつぶやきも結構してくれそうな気がします。「またまた汽車に乗ってます。まあ別に目的はないけど」とか頻繁にツイートしそうです(笑)
この他にも、鉄道界や鉄道趣味の世界の人でも、フォローしたい人はたくさんいますが、これ以上挙げていくとどんどんマニアックな方向に進んでいってしまいそうなので・・・

でもたまにこういうことを妄想してみるというのも、個人的には結構好きですね。
もっとも、私自身は過去に一度ツイッターのアカウントを開設してはみたものの、ほとんどツイートしないまま放置してしまった過去がありますが・・・
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もう少し早く計画が動き出していれば・・・ [鉄道ニュース]

こんばんは、gonanaです。
ほぼ四半世紀前に計画が凍結された西武新宿線西武新宿ー上石神井間の地下急行線を使った複々線化計画。今となっては、そのような計画があったことも忘れられていたのかもしれませんが、このたび、凍結されていた計画が正式に中止されることになったようです。
詳しくは、下記のリンクにある記事をご覧ください。

西武新宿線「幻の複々線化」正式に中止へ 「無期限延期」から四半世紀 | 乗りものニュース
https://trafficnews.jp/post/86309

確かに高騰する建設費(一説には、地下に急行線を建設することに伴う防災設備に想定以上の費用がかかることが判明したという話もあるようです)と、ピーク時から約40%も低下したラッシュ時の混雑率を考えれば、高額の事業費をかけて複々線化を進めるほどの必要性はないという結論に達したということなんでしょう。
でも、西武新宿線を頻繁に利用する身としては、もし複々線化が実現していたら、西武新宿線はもっと利用しやすいダイヤになったのではないかと今も思います。
構想の通り高田馬場ー上石神井間をノンストップで結ぶ急行線があれば、現在運転されている特急「小江戸」や拝島線へ直通する座席指定列車「拝島ライナー」などは複々線区間で先行の各駅停車の影響を受けないダイヤにすることができ、それによるスピードアップも実現できたでしょう。また現在急行・準急の停車駅となっている鷺ノ宮駅や、徒歩での連絡は必要なものの一応都営地下鉄大江戸線との乗換駅である中井駅にも急行線にホームを設ければ、複々線区間では各駅停車とそれ以外の優等列車の走行線路を完全に分離しながら現在の利便性も確保できたでしょう。
これによって、都内から川越方面への東武東上線やJR埼京・川越線との競争や、同じく都内から拝島へのJR中央・青梅線との競争にもそれなりにプラスの影響が出たかもしれないと思うとちょっと残念な気もします。
同じ西武の池袋線では練馬ー石神井公園間の複々線化が完成し、東京メトロ有楽町・副都心線との直通運転と合わせ、以前と比べて池袋線が便利で速くなったのを感じている者にとってはなおさら惜しい気がします。
複々線化計画が正式に中止されることが決まった今となっては、これらの想像ももはや鉄道好きの妄想にすぎなくなってしまうでしょうね。
私が思うに、歴史に「もしも」は禁物といいますが、この複々線計画があと10年くらい早く持ち上がっていたら、また違った展開になっていたと思うのですが・・・
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駅名を変えるのはやっぱり難しい? [鉄道ニュース]

こんばんは、gonanaです。
少し前に私の生まれ故郷の駅の話題とともに取り上げた京急の4つの駅の駅名改称。あの山の手・京浜東北線新駅と違って、特にこれといった騒ぎにもならずに受け入れられていたような印象がありましたが、なにやら新逗子駅改め逗子・葉山駅に関していろいろあるみたいで・・・
詳しくは下記のリンクの記事をご覧ください。

京急「新逗子」が「逗子・葉山」に 駅名改称問題で住民に不協和音 (SankeiBiz)
https://www.sankeibiz.jp/econome/news/190521/ecc1905211938001-n1.htm

う~ん、駅名一つとってもやっぱりよそ者には分からない地元や近隣地域ならではの思いがあるんですね。
おそらく京急としては、記事中で取り上げられている割引切符も活用して葉山方面への観光客を自社に呼び込もうという意図のもと今回の駅名改称を決めたのだと思いますし、その京急の狙いは、羽田空港から横浜方面へ向かう京急の「エアポート急行」の行き先が新逗子(→逗子・葉山)駅だということからもうかがえます。
また、JR宇都宮線から湘南新宿ライン経由で横須賀線方面へ直通する大半の列車の終着駅が逗子駅ということから、葉山への観光客輸送でのJRとの競争を意識したという面もあるかもしれません。
さらに、かつて京急やその横浜以南区間の前身である湘南電鉄には、逗子から葉山を経由して三崎方面へ至る新線計画もあったようで、もともと京急にとっても葉山は無視できない存在だったのでしょう。
そんな京急の思いと地元の意識のずれがいろいろ出ているのかもしれません。葉山町の人たちにとっては、90年以上変わることのなかった「葉山」という町名にはやはり誇りがあるでしょうし、一方で「葉山」には一定のブランド力のようなものがあることも事実であり、それを良い方向に生かしていくことも必要でしょう。
駅名改称はもう決定事項なのでよほどのことがない限り来年には駅名が変わるわけですが、記事にもあるように将来この駅名変更が葉山町にとって良い効果を生むことになるのなら、それが一番なのではないでしょうか。
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遠足の思い出 [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。
先日、2014年7月初めを最後に更新が止まったまま今も残っている私のかつてのブログを久しぶりに覗いてみました。
当時の記事をいくつか読み返してみると、5~10年前のことなので懐かしいやら、当時の記事の書きっぷりが何となく恥ずかしかったり、気付いたら1時間近く見入ってしまいました。
そんな記事の中に、ブログの運営側から提示されたお題にユーザーが答える形で書くスタイルの記事がたくさんありました。確か週に1回程度いろいろなテーマのお題が出され、ユーザーそれぞれが好きなものを自由に選んで記事にしていくのですが、当時もブログのネタがない時など結構多用させてもらいましたし、自分で最初から記事を書く時にはネタとして選ばないようなテーマで書くチャンスもあったりで、読み返してみるとなかなか楽しかったです。
それにヒントを得て、というわけでもありませんが、今回から時々、それらの過去のお題当行のテーマにもう一度答えるような記事を書いてみようかなと思っています。
それでは、早速、今回のお題です。

お題:遠足、どこ行った?

そういえば、春の遠足シーズンって今頃でしたっけ?
幼稚園から小中学校まで、遠足の行き先といえば西武池袋・秩父線の飯能から西武秩父あたりにかけての山や川などへ向かうことが多かったです。その中でも、これらの区間に点在する山への登山が定番のようになっていました。
幼稚園から高校まで、一貫して西武沿線にある幼稚園・学校に通学していたため、遠足の行き先として距離的にもちょうどよいこれらの場所が選ばれたのだとは思いますが、何度も好きではない山登りばかりするので正直あまり乗り気ではなかったのを思い出します。
これはあくまでも私の邪推ですが、この地域の学校にこうした遠足が多かったのは、当時の西武鉄道が、沿線の小中学校に飯能から秩父方面にかけてへのハイキングコースや山登りの遠足などを積極的に誘致していて、それに応えた学校が多かったのが理由だったのではないかと思います。
そんな少々マンネリ気味だった遠足の中で、小学4年の春の遠足の時に、ちょうど開園したばかりの東武動物公園へ行ったのは楽しかったです。
でも・・・どういうわけか肝心の現地での記憶がほとんど残っていません。この当時の東武動物公園といえば「カバ園長」こと西山園長が有名で、その西山園長の話を園内のどこかで聞いたような記憶はありますが、肝心の動物の記憶がほとんど残っていないのは今思うと残念です。
そして鉄道好きとしては、開園当初の東武動物公園では蒸気機関車や電化当時の電車、東武日光軌道線の連接車など、現在では東京東向島の「東武博物館」で保存されているものを中心に数両の鉄道車両が園内に保存されており、そのことも鉄道雑誌で知っていたのにどういうわけかこれも見た記憶がありません。今となってはこれも惜しまれるところです。
あと、ちょっと変わったところでは、高校2年の時、この年(1988年)に熊谷市で開催された「さいたま博覧会」に行きました。当時はバブル真っただ中だったせいもあってか日本各地で博覧会ブームが起こっていて、この「さいたま博」もその中の一つでしたが、どんなパビリオンやイベントを楽しんだのか、こちらもあまり記憶に残っていません。もともとイベントは大小問わず好きな方なので、それなりに楽しめたことは間違いないんですが・・・

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忘れられない夢の話 [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。
皆さんには、かつて見た夢で今でも忘れられないものはありますか?
私はそれほど夢を覚えているほうではありませんが、それでもいくつかは今でも覚えている夢があります。今回はその中から、今でも思い出すと冷や汗ものの夢をご紹介します。
これは大学1年生の秋頃に見た夢の話です。
とある大学の社会福祉関連の学部に通っていた当時の私は、おぼろげながら教師になるという将来の目標が見え始め、教職課程に進むことを考えていた時期でした。
そんなある夜、夢の中の私は母校と思われる小学校での教育実習に臨んでいました。
実習で教える教科は社会科で、これは実際に私のいた学部で教職課程の規定の単位を取得すると、小中学校の社会科の教員採用試験の受験資格が得られることからきているのでしょう。
夢の中の私は、担当になったクラスの30~40人くらいの生徒(何年生だったかは忘れましたが)を前に授業の実習をしています。生徒たちの背後には、指導に当たってくれているこのクラスの担任の先生が立っていて、私の授業の進行を見守っています。
何についての授業をしていたのかは覚えていませんが、45分間の授業の中盤あたりまでは非常に緊張しながらも概ね順調に授業を進めていました。監督役の担任の先生も「よし、この調子で」といった表情でこちらを見つめています。
・・・と、生徒たちに向かって話していた私の頭の中が、何の前触れもなく突然真っ白になり、言葉が出なくなってしまいました。
何が自分に起こったのかわからないまま、なんとかこのピンチを乗り切ろうと黒板に向かって板書しようとするのですが、次に書くべきことが何なのか全く思い出せません。
そのうちに私の異変に気づいた生徒たちから「○○(私の苗字)先生、どうしたの?」「○○先生、大丈夫?」などの質問が飛んできました。担任の先生も「○○どうした?、大丈夫か?」と声をかけてきます。それに対して私は、「ごめんなさい」と答えるのがやっとで、もうどうしたらいいのか分からなくなっています。
さらにそのうち生徒たちは騒ぎ始め、もはや収拾のつかないカオスな状態に陥っていきます。担任の先生も完全に頭を抱えてしまい、騒ぎを聞きつけた他のクラスの先生も教室にやってきます。
そして、もはや完全に自分で自分をコントロールできないほどのパニック状態に陥ってしまった私は、何やら意味不明な絶叫をあげ…

・・・と、そこで目が覚めました。体は汗びっしょりで、下着はもちろんパジャマ代わりに着ていたスウェットも濡れていました。
本当に、夢であってよかったとホッとした瞬間でした。
こんな夢を見たから、だけではありませんが、その後自分が教師になるということについてかなり不安を感じるようになり、結局教職課程に進むのは諦めることに決めました。
今にして思えば、あの夢は「教師になるということを甘い考えで進路として選ぶものではない。自分にとって教職が本当に目指すべき道なのかよく考え直せ」という忠告のようなものだったのかもしれません。
今でも、人に何かを教えることにはあまり自信はありませんし、最近の校の教師の勤務の過酷さを思うと、自分が教師にならなかったのは間違った選択ではなかったようにも思えます。
ただ、たまに自分が教師になったらどんなクラスにしたいか、どんな事を生徒たちに教えていきたいかなどといった自分なりの理想の教師像を頭の中で思い描くのは、それはそれで楽しいのもまた事実なのです。

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