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毎朝のルーティーン [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:子供の頃夢中で見ていたテレビ番組

過去の記事でも書いた通り、私は子供の頃、まさに絵に描いたような「テレビっ子」でした。
当時バラエティー番組や歌番組にはほとんど興味はなかったけれど、アニメやクイズ番組は大好きだったし、当時よくあった子供向けのドラマもいくつか見ていました。
そんな中でも、幼稚園時代に限って言えば、一番夢中で見ていたのは、幼児・子供向け番組だったかもしれません。
地上波テレビの子供向け番組といえば、今ではNHK Eテレの独壇場といった感じで、長年続く「おかあさんといっしょ」をはじめいろいろな番組が放送されていますが、私が子供向け番組をよく見ていた約40年前の幼稚園児時代は、民放にも子供向け番組が何本かありました。
私がよく見ていた番組としては「ロンパールーム」「カリキュラマシーン」(以上、日本テレビ)、「ママとあそぼう!ピンポンパン」「ひらけ!ポンキッキ」(以上、フジテレビ)などがありましたが、「おかあさんといっしょ」や当時この他に放送されていた日本テレビの「おはよう子どもショー」はなぜかほとんど見た記憶がありません。(おそらく、放送時間帯との兼ね合いかもしれません)
当時ほとんどの番組が月曜日から金曜日または土曜日の帯番組だったと思いますが、私はほぼ毎日これらの番組を見ていた記憶があります。
特に「ピンポンパン」「ポンキッキ」は以前の記事でも取り上げた「みどりの窓口」とともに毎朝のルーティーンになっていました。
かつて大ヒットした「およげ!たいやきくん」も、私は空前の大ヒット曲になっているとはつゆ知らぬまま、ほぼ毎朝「ポンキッキ」で聞いて(見て?)いた歌の一つでした。その他にも「ピンポンパン」や「ポンキッキ」でよく聞いた歌の中には今も覚えている歌もいくつかあります。
これらの番組は大抵は朝の幼稚園や保育園の時間の前に放送されるものが多く(夕方に再放送のある番組もあったようです)、おかげで(?)子供の頃から朝なかなか起きないということはあまりなかったようです。
また、母親に言わせれば、私は「カリキュラマシーン」で平仮名を覚えたらしいです。(自分ではその自覚はないですが)

私ももう50歳近くなり、幼児・子供向け番組と縁がなくなって久しく、さらに子供がいないこともあり今どきの子供向け番組のことは正直よくわかりません。子供番組のメインターゲットになる視聴者層の子供は今や自分の子供どころか孫でもおかしくない年齢差になりました。
幼児・子供向け番組は過去のテレビ番組を解雇する番組でも、ドラマやバラエティー番組と比べるとあまり取り上げられていないような気もしますが、どこかで私が夢中だった当時の子供向け番組の映像を見るチャンスがあればぜひ見たい・・・なんて言ったら呆れられてしまいますかね(笑)

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そりゃあ、18年ぶりのことですからね [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:○年前の今日はどんな日?

それは、今から16年前の今日、2003年9月15日の夕方から翌朝にかけてのこと。
私はその数日前から、少し遅い会社の夏休みを利用して、岡山・広島方面へ乗り鉄旅に出かけていました。
この乗り鉄旅では、ブルートレイン編成の「出雲」や213系時代の「マリンライナー」のパノラマグリーン車、可部線の可部ー三段峡間のそれぞれ最初で最後の乗車をはじめ、あちこち乗りまくりましたが、それについてはまたおいおい書かせていただくとして、今回はその後の話です。

当日(9月15日)の朝、広島での乗り鉄を終えて山陽新幹線700系「ひかりレールスター」編成の「ひかり」で広島を後にしました。といってもこのまままっすぐ帰路についたわけではなく、この日は大阪で一泊する予定でした。
大阪で寄り道した理由は、翌日に滋賀県長浜市の「長浜鉄道スクエア」を見に行く予定にしており、広島からの帰りの途中によるとなるとスケジュール的にあまりゆとりがなくなるので、広島よりも長浜鉄道スクエアへのアクセスが便利な大阪で泊まることにしたのです。

昼前に「ひかり」で新大阪に着いた後は、夜に大阪駅近くのビジネスホテルに入るまで未使用の「Jスルーカード」(当時JR西日本近畿エリアで利用できたプリペイドカード)や「スルッとKANSAI」(やはり近畿エリアの私鉄・地下鉄・バス等の多くの会社・交通局の路線で利用できるプリペイドカードシステムの総称)のカードを利用して乗り鉄を楽しみつつ時間をつぶしました。
乗り鉄をしながら持参のポケットラジオで地元のラジオを聴いていると、14時少し前から、その日甲子園球場で行われていた阪神対広島戦の中継が始まりました。
この年のプロ野球セ・リーグは、この時の乗り鉄旅の時点で18年ぶりの阪神優勝がもう秒読みに入っており、あとはいつ優勝するかに話題が集まっていましたが、数試合足踏み状態が続いた後、その日のデーゲームを迎えていました。
普段の私は基本的に野球にはほとんど関心がなく、テレビやラジオの野球中継をじっくり見たり聞いたりすることはありませんが、この時は久方ぶりの阪神優勝まであと一歩のタイミングに、たまたまそのお膝元の関西にいるという偶然にテンションが上がっていたのか、そのまま何となく中継を聴き続けていました。
確か17時30分近くだったと思いますが、関西空港駅の南海の構内にいたタイミングで阪神対広島戦は見事阪神の逆転勝ちに終わり、あとは確か16時か17時試合開始のヤクルト対横浜戦で、横浜が勝てば阪神が優勝ということになりました。
19時過ぎに今夜の宿泊先のホテルにチェックインしてしばらくたった頃、ヤクルト対横浜戦で横浜が勝ったことで、阪神のリーグ優勝が決まりました。
優勝決定は19時半頃だったと思いますが、ラジオを聴いているとその1時間ぐらい前からすっかり優勝間違いなしというようなムードの放送になり、聴いているこちらもだんだん興奮状態になってきました。
優勝が決まると、もうあとはすっかりお祭り気分という感じで、完全に「にわか」な私でも気分はすっかり阪神ファンになった気分で、テンションが最高潮に達していました。

阪神優勝が決まった後のテレビやラジオは、NHKも民放も少なくとも関西ローカルの番組は、ほぼ阪神優勝一色になり、深夜はNHK教育を除くほぼ全チャンネルで優勝特番を長時間放送していました。さすがに夜通しこれらの番組に付き合ってばかりもいられないので途中で寝ましたがテレビやラジオでも阪神優勝の余韻は翌日の朝まで続いたようです。
翌朝になって、主要スポーツ紙5紙(デイリー、スポニチ、日刊スポーツ、サンスポ、報知)のセット販売があるというので記念に購入しようとしましたが、大阪駅の売店をいくつか見て回ってもどこの店でもスポーツ紙・一般市とも新聞のラックが空っぽになっているという状態でした。
その他にも、デパートやショッピングセンターなどには阪神優勝を祝う垂れ幕や横断幕があちこちで見られるなど、優勝から一夜明けてもまだまだ興奮冷めやらずといった雰囲気でした。

球団も人口も多い関東では、テレビ・ラジオが地元球団優勝の話題一色になったり、スポーツ紙が売切れたりといった状況はなかなかないので、いかに阪神優勝が大事件かを実感することができました。やはりあの1985年の日本一以来18年ぶりの快挙だけに、その喜びはもう言葉で言い尽くせないほどだったのでしょう。完全に「にわか」な私でさえ阪神優勝の日に立ち会え、その興奮を肌で感じてテンションが最高潮に達したくらいですから、長年の阪神ファンの方々にしてみればどれだけの喜びだったのか、容易に想像できます。
普段はあまり野球には関心のない私ですが、この日ばかりは野球好きな人の気持ちに、少しは近づけたかもしれません。

阪神は2003年は結局日本一を逃し、2005年にもリーグ優勝どまりに終わった後、久しく優勝から遠ざかっており、今年もどうやらクライマックスシリーズに進出できるかどうかという状況らしいですが、次回阪神が優勝した時も、16年前の今日私が味わったような興奮の一夜がまた展開されるのでしょうか。
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【乗り物中心】高校修学旅行の思い出④ 熊本→長崎→福岡 そして帰路へ [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。
九州への修学旅行の思い出、最終回です。

修学旅行4日目の朝、熊本市内の宿を出た私たちは、まずはバスで熊本城へ向かいました。
バスでの移動距離はわずかでしたが、その大半で熊本市電の走る道路を走りました。朝のラッシュ時とあって数両の電車と並走したり擦れ違ったりする中、路面電車ファン的にラッキーだったのが、当時熊本市電唯一の連接車であった5000形(元 西鉄福岡市内線1000形)と少しの間並走したこと。5000形は現在も西鉄時代の塗装に復元された1編成が現役のようですが、当時も基本的に朝ラッシュ時の限定運用となっていたので、見ることができただけでも何だか得をした気分になりました。
熊本城を見学した後は、今夜の宿泊地長崎への移動です。
熊本城から天草の鬼池港へ向かう途中では、JR九州三角線のキハ31と2~3分間並走する場面もありました。結局この修学旅行中にJR九州の列車の姿を眺めることができたのはここだけでした。現在のように特徴ある列車が多数走る時代にはなっていなかったものの、鉄道ファン的には少々物足りなくもありましたが、九州でしか見ることのできなかったキハ31に遭遇できたのは幸いでした。
鬼池校から島原半島の口之津港まではこの旅3度目のフェリーの旅となります。鬼池校から30~40分ほど乗ると口之津港に到着し、フェリーに積載していたバスに再び乗って長崎市内へ向かいます。
島原半島の中で具体的にどのあたりを通過したのかは記憶がはっきりしませんが、おそらく終始車窓には雲仙普賢岳の姿も見えていたことでしょう。普賢岳の噴火や火砕流災害があったのは私が修学旅行中に島原半島を通った翌年から翌々年にかけてのことで、通過した場所の中にはそれらの災害によって大きく姿を変えた場所もあるかもしれません。いずれにしてもこの時期に島原へやってきたのは今から思うとかなり貴重な経験だったようです。
長崎市内に入り、あとは市内のホテルへ向かうだけでしたが、夕方も近くなっていたので道路の混雑も激しいようでバスはなかなか先へ進みません。
そんな中、進行方向右側の車窓にひっきりなしに現れる長崎電軌の路面電車たちの姿は渋滞を忘れさせてくれました。残念ながら鹿児島・熊本も含め路面電車に乗る機会はありませんでしたが、いずれの都市でもバスガイドさんから簡単にではあるものの路面電車の紹介があり、路面電車が観光の面でも地域に根付いていることが感じられてファンとしては嬉しい限りでした。
ホテルでの夕食後は、長崎に落とされた原爆で被爆された方から体験を聞く会が開かれました。体験を話してくださった被爆者の方の語りからは、私たちが想像もつかないような悲惨な被爆の実態が感じられ、改めて原爆や戦争のない世界を築いていかなければならないという思いを新たにしました。
翌日は修学旅行最終日。
ホテルをバスで出発してカステラの工場(メーカー名は忘れてしまいましたが)を見学して、いろいろ変った味のカステラを試食したり工場直売品のお土産を購入したりしました。
その後は佐賀県を素通りして一気に福岡空港近くへ向かい、お土産屋さんで最後の九州土産の買い出しをし、空港へ向かいました。
福岡空港から羽田空港まで乗ったのは、確かJALのボーイング747だったと思います。羽田までの約1時間40分ほど、修学旅行のあれこれを思い出しながらイヤホンで落語など聞いて過ごしていましたが、途中で気流の関係かかなり揺れた場面もありました。
しかし飛行機は無事に羽田空港に到着。荷物を受け取った後空港の到着ロビーで解散となり、修学旅行は無事終わりました。

この修学旅行では、訪問した九州のいろいろな観光地はもちろん、道中で乗ったり目撃したりした乗り物も大きな思い出になりました。鉄道以外の交通機関の状況はあまりよくわかりませんが、鉄道車両に限って言えばその時乗車したり見た車両の中には今はもう思い出の車両となったものも多いことからも、30年の時の流れを感じます。
今後もし機会があれば、この修学旅行のルートをもう一度旅してみるのもよいかな、などとも思っています。

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【乗り物中心】高校修学旅行の思い出③ 九州初上陸 宮崎→鹿児島→熊本 [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。
高校時代の修学旅行の思い出の続きです。

大阪南港から鹿児島県の志布志港へ向かう夜行フェリーに乗船した私たちは、フェリーの桟敷席のカーペットの上で雑魚寝状態で修学旅行最初の夜を過ごしました。
朝目覚めると、天気は良いもののやや波が高いようで少し船の揺れも大きかったのを覚えています。
朝食は確か指定された時間内に各自船内の食堂に食べに行く(メニューは全員一緒)という方法だったと思いますが、船の揺れや慣れないフェリーの旅のためか、あまり朝食を食べている人は多くなかったようです。
8時半から9時頃に志布志港に到着し、私にとっては初の九州への上陸となりました。
ここからは最終日の福岡空港到着まで、基本的にはすべてバスでの移動となります。
まず初日は志布志港から宮崎県串間市の都井岬に移動し、御崎馬(みさきうま)という国の天然記念物に指定されている日本在来馬とふれ合った後、日南海岸などを観光してその日は日南海岸のホテルに宿泊しました。
翌日の3日目はバスで鹿児島へ移動し、島津家別邸「仙巌園や城山などを巡り鹿児島市内に宿泊。
さらに翌日は桜島にも足を延ばし、もちろん桜島へのフェリーにも往復乗船しました。
鹿児島市内の移動中には2回ほど鹿児島市電と交差したり併走したりする場面もありました。現在のように低床車などが幅を利かす前でしたが、前日はほぼ鉄道との接点のない一日だったので、鉄道好き的には楽しい一瞬でした。
桜島観光の後は熊本への移動です。どのようなルートで熊本へ向かったのかは記憶にありませんが、阿蘇山に近い地域も通ったような記憶はあります。
この日は熊本での見学などはなく、おそらく熊本市内のホテルにまっすぐ向かい宿泊となったと思われます。

次回は修学旅行後半の思い出です。

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【乗り物中心】高校修学旅行の思い出② バス待ち中にも鉄分補給&フェリー乗船 [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。
30念前の九州への修学旅行の思い出の続きです。

東京駅から新幹線0系「ひかり」で新大阪駅に到着した私たちは、ここから貸し切りバスで大阪南港へ向かい、その夜の志布志港行きのフェリーに乗船することになっていました。
新大阪駅から大阪南港へは大阪市営地下鉄(現 大阪メトロ)の御堂筋線・四つ橋線・ニュートラムを乗り継ぐコースでもいけますが、400人近い高校生が都心の地下鉄や輸送力の小さな新交通システムの車内になだれ込むのはさすがに無理があるというものでしょう。個人的にはニュートラムには乗りたかったですが(笑)

新幹線を降りた私たちは、駅の外に出て団体専用の大型バスの駐車場に移動し、大阪南港まで乗る貸切バスがやってくるのをクラスごとに並んで待ちます。
特にこれといってすることもなくぼ~っと立っていると、突然駐車場の向こうの方に黄色い電車がやってきました。突然のことで驚きましたが、どうやら団体用駐車場のそばを新大阪駅近くにある宮原客車区や宮原電車区等(現 網干総合車両所宮原支所)へ向かう回送線が通っているようで、やってきたのも当時JR宝塚線(福知山線)の大阪―新三田間で運用されていた宮原電車区(当時)のカナリアイエロー色の103系だったというわけです。
関東ではこの時代も中央・総武緩行線や南武線で大活躍していたカナリア色の103系も、関西で見られるのはJR宝塚線の車両だけで、貴重な存在でした。そういう車両を見ることができたということで、退屈なバス待ちの時間が急に楽しい時間に変わりました。
周りでは「何で大阪に総武線が走ってるの?」(私たちのような西武沿線在住の人にとっては、黄色い電車といえば西武線か総武線というイメージが強いので)という言葉も聞こえてきて、事情を知っている私にとってはそんな反応も面白かったのを思い出します。
103系が走り去って2~3分ほどすると、103系とは逆方向へまた列車が通過しました。この時やってきたのは、岡山をベースに活躍していた12系客車のジョイフルトレイン「ゆうゆうサロン」の専用機として、当時の客車と同色の茶色ベースに金色帯という姿になっていたEF65 123号機でした。客車のない単機回送だったことからすると、おそらく北陸方面へ向かう客車を大阪駅まで牽引し、そこから先を担当するEF81に牽引気を交代後に単機で宮原運転所へ引き上げるところだったのでしょう。
このEF65 123号機もそうそう頻繁に関東で見られる機関車ではなかっただけに、遭遇の嬉しさという点では103系以上です。
こちらにも周りからは「あれ?この電車1両だけで走ってる!」(おそらく遠目には電車と機関車の見分けがつきにくかったのかもしれません)などの反応が聞こえてきます。

結局、駐車場でのバス待ちの時間は10分ほどだったと思いますが、その間に新幹線車内に続く素晴らしい「鉄分補給」の時間が過ごせたというのは大きな思い出になりました。
残念だったのは、せっかくの貴重な出会いを全く撮影していないこと。確かこの修学旅行にはカメラの持参も許可されていたような記憶がありますが、あまりに突然のことでカメラを取り出す間がなかったのが正直なところです。カナリアイエローの103系もEF65 123号機ももうすでに過去の車両となってしまっただけに、この時たとえ下手でも撮影できていれば・・・と悔やまれます。

さて、まだ大阪にいるのにテンション高めになっている中、貸切バスで大阪南港へ向かいます。新大阪駅から40~50分くらい(正確なところは覚えていませんが)で大阪南港のフェリーターミナルに到着し、今夜の宿でもある志布志港行きのフェリーに乗船です。
これも正確な時刻は忘れてしまいましたが、18~19時台くらいに大阪南港を出港し、私にとっては初めての長距離フェリーの旅が始まりました。
席はカーペット時期の桟敷席(?)で、ここにクラスや班ごとといった単位で雑魚寝する形でした。
夕食にどんなものを食べたのかは覚えていませんが、おそらく船内の食堂をほぼ貸切状態にして食べたのだと思われます。
夜行フェリーに乗ったからにはぜひデッキに出て外の空気を吸ったり、夜の海や星空などを眺めてみたくなるものですが、この時にはそういった記憶がありません。先生方からデッキに出ることを禁じられていたのか、それともまだ寒い3月ということでデッキに出なかっただけなのかは、今となっては定かではありませんが・・・
そんなこんなで、まだ九州に着いていないのに私としてはかなり濃密な思い出の残った修学旅行初日も終わり、カーペットの上で就寝となりました。

次回は九州上陸編です。

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【乗り物中心】高校修学旅行の思い出① 最初で最後の「0系ひかり」 [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:修学旅行どこ行った?

修学旅行かあ…
最後に行った高校の修学旅行ですらもう30年前の事なので、もうすっかり懐かしい思い出という感じです。

で、行先は…
小学校が日光、中学校が佐渡島、高校が九州でした。

日光は当時の関東の公立小学校の修学旅行先としてはおそらく定番だったであろう地域だし、九州も修学旅行先の大定番ですが、今でも謎なのがなぜ佐渡島に行ったのかということ。
私が修学旅行で佐渡に行ったと言うとほぼ全員に不思議がられます。
関東の中学校の修学旅行先の定番はおそらく京都・奈良あたりなんでしょうけど、どうしてその定番を外したのか・・・?
まあ、佐渡金山を見学したり島内の絶景スポットに行ったり、新潟港と佐渡の両津港の間は片道が普通のフェリー、もう片道はジェットフォイルに乗れたりで、結構楽しかったんですけどね。

そして、今回主に話題にするのは高校の修学旅行の話です。

「平成」が始まってちょうど2か月経った平成元年3月上旬から中旬にかけて、当時高校2年生だった私は、通っていた高校の修学旅行に参加し、初めて九州を訪れました。
正確な期間は記憶があいまいですが、修学旅行中にその年春のJRダイヤ改正(平成元年3月11日)当日を迎えたのは今も覚えています。
日程は5泊6日(うち船中1泊)で、新幹線と長距離フェリーを乗り継いで鹿児島県の志布志港から上陸して時計回りに九州をほぼ一周(ただし大分県には足を踏み入れず、佐賀県も通過するだけでした)し、福岡空港から飛行機で帰路につくというコースでした。
もちろん修学旅行ですから九州各地で見学などの思い出もいろいろできましたが、30年も前の話となるとやや記憶があやふやな部分も出てきてしまいました。
そこで、この修学旅行の思い出を、その時に乗った(または目撃した)乗り物を中心に4回シリーズで振り返ってみたいと思います。

私の通っていた高校は、埼玉県内の西武線某駅が最寄駅のため、修学旅行初日の朝、学校に集合した私達2年生は、その最寄駅からまずは西武線と山手線を乗り継いで東京駅へ向かいました。
私たちの学年は400人近く生徒がいるものの、おそらく山手線はもちろん西武線内でも貸切列車利用とはせず、クラス単位で2~3班に分かれて一般の定期列車に混乗する形をとったと思われます。
東京駅からは、東海道新幹線で新大阪へ向かいます。今も昔も、修学旅行で新幹線を利用する学校の中には修学旅行専用列車を利用する学校も多いようですが、私たちは通常の「ひかり」利用でした。
もちろんこの時代に「ひかり」を利用するとなれば100系乗車を期待しましたが(事実、私のほかにも同じように100系に乗れると期待していた人は多かったようです)、乗車したのは0系でした。
この時は少々残念な気持ちにもなりましたが、結果的には山陽新幹線区間も含め、この時が最初で最後の「0系ひかり」乗車となり、今にして思えば貴重な経験となりました。
乗車した「ひかり」(号数は忘れてしまいましたが)は12時台の発車だったので、「ひかり」に乗るからには食堂車を利用したい気満々ではありましたが、修学旅行中とあってはそうもいかず、自宅から持参した弁当で昼食となります。
弁当を食べた後は友達とおしゃべりしたり眠ったり、新大阪までの約3時間、各自それぞれ思い思いに過ごしていましたが、鉄道好きの私としては終始流れる車窓に釘付けで眠気を覚えることもありませんでした。
特に熱海以西は初の乗車となるので、見るものすべてが新鮮です。当日富士山がよく見えたという記憶はありませんが、それを補って余りあるのが、途中で出会った鉄道車両たちでした。
地点は思い出せませんが、静岡県内の東海道本線との並行(交差?)区間ではEF65一般形が牽引する貨物列車を目撃、名古屋付近では名鉄7000系「パノラマカー」や1000系「ぱのらまsuper」等の名鉄電車を短時間のうちに何編成も目撃できました。
京都駅では高架上から構内に留置中の東海道山陽線緩行のスカイブルーの201系を見て「いよいよ関西までやってきた」という感激に浸り、大山崎付近の阪急京都線との併走区間では期待通り阪急電車との擦れ違いを見ることも出来ました(期待していた当時の特急車6300系ではありませんでしたが)。
そんなこんなで興奮が収まらないまま「ひかり」は新大阪駅に到着しました。長い乗車で「付かれた~」とこぼしている人も周りにはいましたが、私にとっては本当にあっという間の3時間でした。まだ九州にも渡っていないのに、修学旅行の最初の思い出ができてラッキーな気分でした。
この後新大阪駅からは、貸切バスを利用して大阪南港へ移動し、志布志港行きの夜行フェリーに乗り継ぐことになりますが、その貸切バスに乗る前に、またしても鉄道好きの私を興奮させる光景に出会いました。
そのあたりはまた次回のきじで。

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え?!どうして俺が? [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:新聞や雑誌に載ったことある?

私は ある 派

新聞や雑誌、テレビに自分が出る(あるいは自分のことが記事になる)なんていう事は自分には無縁だと思ってましたが、今から10数年前、思いがけないきっかけでその機会が訪れました。

私がかつて千葉市のおもちゃ図書館「千葉市トイライブラリー」でボランティアをしていた時の話は、何度かこのブログでも書いてきましたが、今回もその当時の話です。
それは、私が千葉市トイライブラリーのボランティアをするようになって10数年たった頃のことです。
あるおもちゃ図書館の開館日、いつものように開館場所に行くと、当時そのおもちゃ図書館で全体のまとめ役的な存在だったボランティアさんから突然声を掛けられました。
その内容は、近日中にトイライブラリーに千葉県の地元新聞「千葉日報」の記者の方が取材に来られ、その際に私にインタビューをするというのです。
いきなり私にインタビューと言われて驚きましたが、さらに話を聞くともう一つのサプライズがありました。
それは、当時千葉日報では、読者からの推薦と社内選考によって千葉県内で様々な活動に取り組んでいる個人や団体を表彰する賞が設けられており(現在もその賞があるかどうかはわかりませんが)、それにあるボランティアさんが推薦文を出し、見事私がその賞に選ばれたというのです。
それを聞いて私は正直これはドッキリではないかと思ってしまいました。
推薦文を出してくださったボランティアさんによれば、私が大学時代から長い間、埼玉から千葉に通ってほぼ毎回ボランティアとして活動してくれているので推薦させてもらいました、とのことでした。でも、私としては特にこれといった強い思い入れでというより、単に子供が好きだからという理由で続けていただけなので、何かの賞をもらえるとは全く思ってもいないことで、にわかには信じられませんでした。
しかしそれがもし本当なら、照れ臭い気分ではあるものの非常に光栄なことですし、こうした事で新聞記者の方にインタビューしていただく機会もそうそうあることではないので、取材を受けることになりました。

その翌週か翌々集の開館日、私へのインタビューとおもちゃ図書館の取材が行われ、千葉日報の記者の方とカメラマンさんの2人が来られました。
まずは開館時間前に私へのインタビューが行われました。私自身のことやボランティアを始めたきっかけ、ボランティアとして活動する中で感じたことなど、確か30分ほどの間にいろいろな質問を受けました。
インタビューを受けるという経験はほぼ初めてで、その緊張の度合いも受験や就活の時の面接ともまた違いましたが、記者の方はさすがインタビューの達人というべきか、非常に柔らかい物腰で話しやすい雰囲気づくりをしてくださり、とても良い雰囲気の中でインタビューを受けることができました。
その後はおもちゃ図書館の取材に移り、私達ボランティアの活動の様子を撮影したり、私以外のボランティアにも話を聞いたりと、記者さんとカメラマンさんは精力的に取材をされていました。開館後1時間ほどで取材は終わりましたが、短時間ながら思いがけず新聞記者の方のお仕事の現場に触れるという体験もでき、とても勉強になった一日でもありました。

その数日後、私へのインタビューと取材の模様が千葉日報に掲載され、埼玉の私の家にも掲載紙を送っていただきました。改めて自分のインタビュー記事を読むとやはりどこか照れ臭い気分になりましたが、私がそれまでボランティアとして活動してきた実績(と言えるほどのものはありませんが)を誰かが見ていてくれて、それが賞の受賞やこの記事につながったのだと思うとやはり素直にうれしかったのを思い出します。

記事が掲載された直後に千葉日報の本社で行われた表彰式でいただいた賞状は今も自室に飾られており、掲載紙とその時にいただいた記念品も自宅のどこかに保存されていると思います。
千葉市トイライブラリーのボランティアから遠ざかってもう10年ほど経ちますが、あの時の受賞とインタビューは、今もおもちゃ図書館のボランティアとして活動した時代の大切な思い出となっています。

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トリプルのアイスクリーム [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:しばらく会ってないけど、今どうしてるか知りたい人、いる?

今回は昨日に続いてのアイスクリームネタ・・・ではなく、私の友人の話です。
このブログの私の記事で何度か、千葉市のオモチャ図書館「千葉市トイライブラリー」のボランティアをしていた時のことを書きました。ボランティアをしている中で、利用者である子供たちやその保護者の方々はもちろん、ともにボランティアとして活動する様々な世代の人たちとも出会うことができました。以前の記事でご紹介した大学の先輩のOさんもその一人ですが、今回はやはりともにボランティア仲間として活動したT君について書きたいと思います。
T君は私より3歳(だったと思う)年下で、車椅子を利用しています。
初めて同じボランティアとして出会ったのはお互いが20歳代中盤頃だったと思います。2人ともこのオモチャ図書館では数少ない男性ボランティアだったこともあるのか、初めて会った時から私と彼は意気投合し、ボランティアの前後などにあれこれたわいもない話をしたり、一緒に食事に出かけたりするようになりました。
そんな中で、T君が本職の福祉関係の仕事の傍ら音楽活動をしていることを知り、ちょうど間近に控えていた彼のワンマンライブを観に行くことにしました。
ライブが行われたのは、千葉県庁にほど近いところにあるレストランバー兼ライブハウスといった感じのお店でした。開演時刻が近付くとテーブル席もカウンター席もほぼ満席になり、そんな中でいよいよT君のワンマンライブが始まりました。
ピアノの弾き語りをメインにオリジナル曲やカバー曲を6~7曲ほど披露してくれ、曲の合間には軽妙なトークも聴かせてくれました。
私はそれまで、こういったライブを観たことがほとんどなく、どの程度楽しめるものかといった不安もありましたが、ライブが始まるとそれも杞憂に終わり、1時間弱のライブを20人ほどの他のお客さんとともに楽しみました。音楽にはあまり詳しくない私ですが、そんな私でも音楽っていいな、と改めて感じる時間でした。
その後もT君とはともにオモチャ図書館のボランティアを続ける一方、彼が千葉や東京都内でライブに出演する時には何度も聴きに行きました。彼のワンマンライブもあれば、他のミュージシャンとのセッションなど、いろいろなスタイルのライブを観ることができました。それまで音楽を聴くのは好きでもそれほど深く楽しむというほどではなかった私には新鮮な経験をたくさんさせてもらいました。
気付けば彼とはもう5年ほどご無沙汰してしまっています。名前をネット検索してみると同名の人のFACEBOOKが見つかりましたが、私がFACEBOOKをやっていないためそのFACEBOOKがT君のものかどうかを確認することができないでいます。彼の近況を把握できないのは残念ですが、機会があればまたぜひ彼の歌声や演奏を聴き、ボランティアをしていたころの思い出話や、会っていなかった間のいろいろな話をしたいと思っています。会っていない間にお互いの環境も大きく変わっているはずで、同じ曲でもかつてとは受ける印象も変わっているかもしれませんし、そのあたりも興味があります。
ちなみに、今回のタイトルである「トリプルのアイスクリーム」は、彼のオリジナル曲の中で私が最も好きな曲のタイトルです。
夫婦で出かけてアイスクリームを注文する時にいつも「トリプル」を注文する妻に理由を尋ねるも、何度もはぐらかされてきた夫に、やがて妻が新しい命を授かったことを告白する、というような内容の曲です。
今でもT君にもらったCDで時々この曲を聴くと、いつかこの曲の続編、つまり二人とその間に生まれた子供のことを歌った曲なんかも聴いてみたいと思ったりします。

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思い出の車内販売アイスクリーム [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:アイスクリーム、かき氷、冷やし中華など、冷たい食べ物・飲み物の思い出

今年の春、JR各社の新幹線・特急列車の車内販売が大幅に廃止・縮小されましたが、そのニュースに関連して話題になったのが、一部で「新幹線のすごく固いアイス」として有名なすじゃーたのアイスクリームの車内販売も東日本地区では消えてしまったということでした。
私自身はそのアイスを食べた記憶はありませんが、近年よく話題に上っていたらしいことは知っていたので、いつか車内販売でこれを購入してどれくらい固いのか確かめてみたい(もちろん食べたいというのもありますが)と思っていたのですが、それも少なくとも東日本地区ではもう叶わなくなってしまいました。
まあ、列車内で味わうチャンスはかなり限られたものになってしまったとはいえ、このすじゃーたのアイス自体が消えたわけではないのが救いといえば救いですが・・・
ところで、この話題を知って思い出したのが、小学5年生の時の夏休みの家族旅行の時に列車内で食べたバニラアイスの思い出です。

それは昭和57年の夏休みのことです。
私は家族と父親の同僚一家とともに、福島県の磐梯地方に旅行に出かけました。
この時点で東北新幹線はすでに大宮ー盛岡間開業から1か月ほど経過していましたが、開業直後の夏休み中とあって指定券が取れなかったからか、旅の往路、大宮駅から乗車したのは、上野発喜多方行の455系急行「ばんだい」(号数は残念ながら忘れてしまいました)でした。
東北新幹線先行開業時のダイヤ改正で在来線特急にはすでに「やまびこ」全廃や「ひばり」削減などの影響が出ていましたが、新幹線がまだ大宮暫定開業ということもあり、まだまだ東北線の電車急行も最後の活躍を見せていた頃で、今にして思えば乗車できたことは貴重な経験だったと思います。
乗車したのはなぜかグリーン車のサロ455でした。ごく普通のサラリーマン家庭ゆえグリーン車など縁のない存在と思っていたので驚きましたが、父親としては途中駅から子供連れかつ大人数で乗車するので、座席確保のしやすさから選んだのでしょう。
何はともあれ、私にとっては初めてのグリーン車体験とあって、緊張するやらわくわくするやら複雑な心境でした。
ただ、大宮―喜多方間は「ばんだい」で約5時間弱の行程で、特に子供は2時間ほどもするとだんだん飽きてきます。そんな時、ちょうど車内にやってきたのがアイスクリーム専門の車内販売員のおじさんでした。(弁当や土産物、飲み物などを扱う一般的な車内販売ももちろん乗務していました)
そして、そのアイスクリーム車販のおじさんから母親が私も含め子供たち全員に買ってくれたバニラアイスクリームが、なぜか今でも鮮明に記憶に残っています。
この時食べたバニラアイスは、あの「固いアイス」のようなものではなく、普通にスーパーや食料品店(当時まだコンビニは少なかった)などで買えるカップアイスとそう大きな味の違いのないものだったと記憶しています。(もちろんスーパーなどで買えるものとは全く違う商品でしたが)
この時は単なるアイスクリーム好きの子供として、特にこれといった感慨もなく食べたごくありふれた味のバニラアイスでしたが、まさかそれから37念も思い出の味の一つとして私の記憶に残るものになるとは思いませんでした。

ちなみに、この時の旅行では磐梯地方の観光地にもいくつか行きましたが、まだ小学生の私にとっては正直それらについてあまり思い出に残るものがなく、むしろ行き帰りに乗車した列車の思い出の方が鮮明です。
行きに乗車した「ばんだい」の車内では、黒磯を過ぎて交流電化区間に入ると、関東にいては見ることのできないED75牽引の旧型客車の普通列車を見て東北に初めてやってきたという感慨がわきました。
旅行の帰路は、喜多方から郡山まではキハ58系急行「あがの」に乗車しました。「あがの」で乗車したのもグリーン車キロ28で、結果的にサロ455もキロ28も最初で最後の乗車となったので、今思うと貴重な経験になりました。
郡山駅では、駅のホームや跨線橋から、駅構内に広がる客貨車区などの側線群をしばらく眺めることができました。茶色い旧型客車やたくさんの貨車が構内にひしめく光景は、線路も減り車両の姿もあまりない現在の同じ場所を思うと懐かしいです。
郡山から大宮までは待望の新幹線200系「やまびこ」に乗車しました。噂に聞いていた揺れの少なさは評判通りで、開業直後ということもあって快適な乗り心地でした。これも当時目玉だったデジタル式のスピードメーターを見にビュッフェへも行きましたが、乗車時間帯がちょうど食事時間としては中途半端だったせいか、ここで食事をとることができず残念でした。結局東北新幹線というより新幹線のびゅっふぇでの食事経験は一度もできずに終わったのは悔やまれます。
そして大宮から川越までは当時まだ電化前の川越線のキハ30系に乗車し、川越駅では「セイジクリーム」一色塗装だった東武東上線の8000系を見かけるなど、今にして思えばかなり贅沢な乗り鉄旅という感じの旅行になりました。

私にこうした体験があるからというわけでもありませんが、やはり新幹線などでのアイスクリームの車内販売の廃止は、特に子供連れの乗客にとっては残念な出来事ではないでしょうか。また、せっかく「新幹線のすごく固いアイス」などと話題になっている中での車販廃止というのも、タイミングとしてはどうだったのかとも思います。
「駅ナカ」や市中のコンビニなどでも確保できるほかの飲食物とは異なり、列車外からの冷たいままでの持ち込みが難しいアイスクリームに関しては、せめて夏季や子供連れの乗客の多い時期・列車限定でよいから復活してほしいものですが・・・

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レインボーブリッジを眺めて [いろんな思い出]

こんばんは、gonanaです。

本日のお題:好きな絶景スポット

私が大学を卒業し、新卒で入社した会社の本社は、東京都港区の竹芝というところにありました。
この竹芝は、伊豆諸島へのフェリーや高速船、夏の東京湾納涼船などが発着する竹芝桟橋のあるところです。
私は、竹芝桟橋の存在はもちろん知ってはいたものの、正直この会社への就職活動で初めて訪れるまで、竹芝桟橋の周辺がどんなところかのイメージが湧きませんでした。
実際にJRでの竹芝桟橋への最寄り駅でもある浜松町駅を出て海の方へ歩いていくと、25年ほど前はまだそれほど大きな再開発は行われておらず、同じエリアでも世界貿易センタービルや地下鉄大門駅の周辺と比べ、飲食店もほとんどなく静かな印象でした。
しかし、竹芝桟橋のすぐ近くになると急に高層ビルや新交通ゆりかもめの高架が現れ、未来的な光景が広がるようになります。
そしてその時見えた高層ビルに入居している会社に、私が就職したというわけです。
入社してから会社の先輩に話を聞くと、竹芝桟橋付近はバブル期に東京湾岸や臨海副都心の開発が脚光を浴び、「東京ベイエリア」などと呼ばれるようになった頃に再開発されたようで、私の入社した会社も入るビルと1階に竹芝桟橋の旅客ターミナルを組み込んだもう一つのビルトのツインビル構造の再開発ビルも、その一環でできたようです。
その2つのビルの間には、それぞれのビルを結ぶペデストリアンデッキと、海側に公園のようなスペースが設けられています。ここには目の前の東京湾やお台場へとつながるレインボーブリッジ、そしてそのお台場に建つフジテレビの局舎などを眺めることのできるベンチが多数設けられています。
こういった絶景スポットだからか、公園内で海をバックにしてモデルさん(?)がグラビアや映像の撮影をしている場面に遭遇したことは何度もありましたし、私には全く縁はありませんでしたがデートスポットとしても人気のスポットのようです。
私は、ここを会社の昼休みに、ほぼ毎日訪れていました。会社のデスクで昼食を食べるより、オープンエアで居心地の良い空間だということもありますが、やはり景色のよさは最高でした。ここで食べるのは主に近くのコンビニで買った弁当やパンでしたが、やはりいい景色の中で食べると何となくおいしく感じられたものです。
時にはビジネスバッグにオペラグラスを忍ばせて出勤し、昼食時にそれを持って公園へ行くなどということをしたこともあります。
結局、新卒で入社したこの会社はいろいろと思うところもあって7年ほどで退社したため、東京湾やレインボーブリッジなどの景観を身近なものに感じる日々は終わりましたが、今もあの頃感じた海風のさわやかさと景色の美しさはよい思い出になっています。
退社してから竹芝桟橋のあたりに行くこともほとんどなくなり、今の状況がどうなっているのかはわかりません。あの頃私が毎日通勤で利用していた浜松町駅の周辺も、ここ15年くらいの間に大規模な再開発が行われ、街並みも大きく変わったはずです。
今の私はあの絶景を再び目にすることはもうかないませんが、暑さが一段落したらまたあの公園へ久しぶりに行ってみたいと思っています。
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